「テヘランから・・・! 」(2002.12.06) |
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 ▲(インド、デリー市内)
デリーでは、ウズベキスタンやイランのビザ取得のために、連日各国大使館へ通う。途中のバス停前のこのスタンドで、カレーを立ち食いし、フレッシュフルーツのジュースで喉を潤し、いつも同じ所に座っている常連のおじさん(?)とのおしゃべり、が日課でした。 |
 ▲(ウズベキスタン、タシケント市内)
アジアの典型的食事。右から丸く平たいナン、お茶は紅茶(都市ではロシアの影響で紅茶、地方では緑茶)
、トマト・キュウリ・玉ねぎのシンプルなサラダ、そしてプロフ(ピラフのこと)の上にもサラダ。たっぷりの
油で炊き込んでるのでサラダと混ぜながら食べると美味しい!
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 ▲(ウズベキスタン、タシケントからフェルガナ盆地へ)
こんな荒野の山々を越えた先には、緑あるフェルガナ盆地が。観光的な見所は少なく、訪れる人は少ない地方だ
が、その分、人々はとても素朴。行く先々で、好奇心旺盛で人懐っこく、言葉が通じなくても物怖じしない老若
男女に囲まれた。ただただ綿花畑が続き、どこまで走っても同じ風景には半分飽きていたのに、何故か、よく思
い出す。 |
 ▲(ウズベキスタン、フェルガナ盆地)
木製の門柱で装飾された家々の門の奥には涼しげな中庭が。そして、その門前にはたわわに実るぶどう棚。行く
先々で、ざくろやぶどう、メロンや西瓜をたくさんご馳走になった。
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 ▲(ウズベキスタン、タシケント市内)
市場では色とりどりの果物、野菜が並ぶ。女性は柄物のゆったりしたワンピースが一般的なスタイル。地方では
ほとんどの女性は頭にスカーフをしているが、首都タシケントではしていない人も多い。 |

 ▲(ウズベキスタン、タシケントからフェルガナ盆地へ向かう路上)
バケツいっぱいのリンゴを路上販売。何もない道路脇に即席の木の台がしつらえられ無人で販売されている場合
は、客が止まるとどこからともなく売り主があらわれる。(上)
出店のようにいくつもの店が立ち並ぶところにはバスも止まる。ここではリンゴだけでなく、ヨーグルトや木の
実、乾燥チーズなども売っていて大賑わい。ヨーグルトを買ったら、他の店のお姉ちゃんたちが、お金は要らな
いから食べていきなよと、次々と木の実やリンゴなどを手渡してくれた。(下)
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まりこ、
とうとうモンゴル行ってきたんだねー
どでした?「外」モンゴルは??
昔一緒に行った内蒙古(中国)でのことなど思い出しながら、旅レポート、楽しく読ませてもらいました。
草原&馬への思いはあのときから消えることはなかったのね!!
次回は、中国青海省の昔のチベットでいうアムド地方、なんてのは どうでしょう? いいらしいですよ〜
黄河源流、なんてのも、このあたりにあります。
さて。ワタシはというと、なんと、今、東京、です。
戻ってきました!
インドはデリーからその後、中央アジアへひとっ飛び。
インド各地への寄り道はせずに、ウズベキスタンから走り始め、
トゥルクメニスタンを抜けイランまで。そしてテヘランから緊急帰国。
相変わらず唐突ですみません〜
ウズベキスタンのブハラ近くからトゥルクメニスタンに入ったのだけどそこからはずっーーと砂漠。そしてイランへ入ったあとも、東はじの イラン一の聖地・マシュハドから首都テヘランまでの1000キロもほとんどが砂漠。そんなテヘランまでの道のりの真ん中あたり、とある村落で彼の体調が悪くなり、数日休んでもよくならないため、
そこからバスでテヘランへ。病院へ行ったら、即入院。
なんと急性肝炎でした。
2週間の入院後、肝臓の数値が正常値に戻り無事退院。でもしばらくは
あまり無理をしない生活を送るのが一番と思い、急遽帰国を決めた次第。
イスタンブールまで行けなかったけど、
インドへ戻る野望(イスタンブールから飛び、冬はのんびりインドで
すごすつもりだった)は果たせなかったけど、
こういう旅のendもありかな、と。
そう、この長旅はこれで終わり、のつもり。
彼は彼でインドから東南アジアを抜けて日本まで陸路で帰る、
なんて、更なる野望に燃えてたんだけどねー
ま、またいつか。
1年あまりの旅を振り返ると、わたしたちが「あぁー幸せっ!」って
チャリこいでたところは、食べものが充実していて、毎食何食べるか
本当に楽しみだった、というところだったみたい。
なんて単純な。しかしまあそういうもんです。たぶん。
(もちろんそんな法則なんてぶっ飛ぶチベットなんて例外もあるんだけどね)
そんなわたしたちにとって、羊肉と砂漠性気候でも育つような限られた
野菜しか口にすることができず、そして比較的単調かつワンパターンの
味付けの料理しか存在しない中央アジア、イランは正直つらいときも
ありました。。(あ、でもフルーツ、ナッツはすごく安くてほんとおいしい)
やっぱり食って重要なんだなぁぁ
でも、一方で、決して豊かな土地ではない砂漠に生きる民の末裔だからか、
そして神を強く信じているからか、旅人に対する人々の熱いもてなしには
本当に驚きました。
お茶や果物などをもらうのはよくあることで、食堂に入って
普通に食事をして勘定をきくと「お金は要らない」と言われることも
1度や2度ではなかった。
寝るゼスチャーでこの辺に宿はあるか?ときくと、「ある!」との答え。
ついていくと、そこはその人の家、ということばかり。
民家に泊めてもらう日々が続きましたが、誰一人、お礼のお金を
受け取ろうとしないのです。
thank youと言うと、感謝するなら自分ではなくアラーに感謝してくれと。。
明らかにわたしたちより収入は少なく、質素な暮らしをしている人々から
こんなにいろいろな施しを受けるのは、不思議な、正直、違う、気もした。
もし自分だったら、困っている見も知らぬ、異国からの旅人を
こんな風に家に招き、食べ物を与え、寝る場所を提供することが
できるだろうか?
また、こういった国の人々の多くは(もちろん都市生活者を除く)
予定なんてないゆるやかな時の流れの中で生きているからか、
自分の用事をおいて色々と助けてくれる。ときには親切の度がすぎて、
構われすぎて、うっとおしいと感じることもあるくらい!
彼らの親切は無限なのだ。いつまででも、どこまででも、
一度関わった人にはとことんつきあう。
なんというか、ゆとり、があるから、気持ちによゆう、があるのだろうか。
そして。
忘れられない砂漠の空。
空気中に塵が多いせいか、一枚フィルターを通したような
なんだか世界を包む大きなカプセル越しに空を眺めるようなあの感覚。
夕焼けがきれいなのはもちろんのこと、昼間、ペールブルーの空の際、
地平線へ向かって白く真空のように無色になっていくグラデーションに
見みとれ走った日々。。
うーーん。書いていてなんだかまだ心は遠いどこかにあるような気も
しますねぇ。でも身体は東京。心もそのうちついてくるさ。
ということで近いうち、会いたいね。お互い積もる話もあるだろうし、
再会を楽しみにしつつ。。ではまた。
ゆうこ(2002.12.06)
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 ▲(トゥルクメニスタン、ガラクル砂漠を縦断する道路で)
「らくだ注意」の看板?!
何もいない砂漠をらくだの隊商でも通るというのか?と笑っていたら、しばらくしたら本当にいた!どうも放牧中のもよう。。
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 ▲(トゥルクメニスタン、道路脇のチャイハネ(お茶と簡単な食事ができるカフェのようなもの)にて)
なにもない砂漠ではこんな食事にありつければ大満足。羊肉とじゃがいもなどの野菜を煮込んだスープにナン。
お茶は緑茶(といっても黄色い色)。 |
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 ▲(イラン、イラン一の聖地・マシュハド)
イマーム・レザーの聖廟(電飾が飾る建物群)で有名な、イランで一番の聖地マシュハドでは、朝な夕な各地か
ら巡礼にきた人々がお参りに来る。これは夕方。礼拝が始まるのを呼びかけるアザーンが町中に鳴り響き、人々
は霊廟にあるモスクや広場へと向かう。黒いのは女性。公の場で、髪や脚、そして体の線を出すことは禁じられ
、頭の先からつま先までをゆったりとした黒い布で覆う。出していいのは顔と手のみ。ワタシは浮きまくりの存
在でした。
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 ▲(イラン、ニシャプール)
ニシャプールの町の人々が誇る聖廟。マシュハドのイマーム・レザーの親類の墓とか。繊細なモザイクに覆われ
た建物は、夜は美しくライトアップされる。夜もお参りにくる人が絶えず、棺に人々は頬を寄せ、くちづけし、
祈り、そして泣く。 |
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 ▲(イラン、ダバルザン)
砂漠のオアシス、何もない砂漠にこつ然と現れる、映画「バグダッド・カフェ」のような砂漠の食堂。働いてい
るのは皆男性。(イランでは、食堂など不特定多数の人々が出入りする場所などで働く女性は見かけなかった。
調理も給仕もすべて男性がやる。)
昼食後、食堂付設のお祈りのための小部屋で昼寝させてもらう。この日は疲れたので、結局、前列中央のこの食
堂を経営しているアリ氏の家に泊めてもらった。 |
 ▲(イラン、ダバルザン)
ダバルザンには数日滞在した。こちらは隣に住むアリ氏の弟アッバス氏の家。この日は、兄弟で経営する農場や
牧場で、子供たちと一緒に野菜をもいだり、子牛と遊んだり。そして夜は他の町に住む親戚もやってきて大宴会
。中央アジアやイランでは、食事はこうして床で。毎食なんだかピクニックのよう。 |
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 ▲(イラン、アッパスアバード)
宿のある町まで辿りつけず、またもや、砂漠の真ん中の食堂にお世話になる。この食堂をきりもりするのは3年
間の雇われ店長。この仕事のため、遠いカスピ海沿いの町から一家でやってきた。昼夜、夫が食堂の仕事をして
いる間、何もない仮住まいの小屋で母子は過ごす。
「この地に来てまだ3ヶ月。まわりに何も無いのに驚いた。わたしの故郷の町の美しい緑の木々を見せてあげた
い。」懐かしそうに語る母はまだ年若い。静かで美しい女性だった。 |
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