セイレン(STORY)
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「面舵いっぱい、帆を下ろせ!」
船長の野太い叫び声がアルガス号に響きわたり、雨と風で吹きすさぶ甲板の上はたちまち、船乗り達の怒号と喧噪に満ちみちた。
 大男 5、6人がマストによじ登り、バタバタとはためいて一向にいうことをきかない帆をやっきになってたたみ込んでいる。ぐらりと船が大きく傾き、マストに登っていた一人が足を取られて暗い海に転落した。男の甲高い叫び声は雨の音にかき消され、必死にもがく手も泡立つ波間にあっという間に消えていった。
 パウロとサンチェゴは急いで、帆を下ろすために男達が懸命にロープを引っ張っている群勢に加わった。「オーレ!」というかけ声の元に調子を合わせ、渾身の力を込めてロープを引っ張る。顔に容赦なく降り掛かってくる雨が目に入ってきて痛い。すでに男達は下着までびしょ濡れになっていた。雨で手先が滑りロープがしっかり握れないので、パウロは自分の上着を引きちぎり、切れ端を手に巻いて力一杯握りしめた。
 どぉん、という音と共に、黒ぐろとした波が船の横っ腹に襲いかかった。衝撃で男達は甲板に叩き付けられ、幾人かはロープから手が離れて船の反対側までつるつると甲板を滑っていった。

 突然、女のか細い歌うような声が、間断なく唸り続ける風の隙間から耳に飛び込んできた。今度は間違いない。その声は高く、低く、不思議な抑揚をつけて、そして段々と、確実に大きくなってくる。
 ふいにパウロは、その声が、これまで凶暴に唸り続けていた風の音より大きくなっていることに気が付いた。激しく振りかかる雨や風にも関わらず、もはや世界から一切の音は消え去り、その不思議で無気味なメロディだけが妙に大きく、周囲にわんわんと響き渡っている。ふと横を見ると、サンチェゴが恐怖に顔を歪め、目を剥き出し硬直したように突っ立っていた。
 次の瞬間、信じられないくらい巨大な黒い壁が、側面からアルガス号に襲いかかってきた。ぬらりとした水面が目の前に迫り、どこかでバリバリと大木が折れるような音がした。同時に全てが暗闇に包まれた。船が転覆したのである。


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