ヘンゼルとグレーテル(Story)#3
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 しゃぁこ、しゃぁこ、という音でグレーテルは目が覚めた。
 グレーテルは固い木の床にうつぶせになっていた。ガンガンと痛む後頭部を抱えて彼女はゆっくりと起き上がり、周りを見渡したが、傍らに居た兄の姿はどこにも見当たらなかった。
「起きたかい」
 しわがれた声が聞こえたのでその方面を向くと、一人の老婆が大きな包丁を研いでいた。背中を曲げて平らな研ぎ石に向かい、リズミカルに包丁の背を押す。しゃぁこ、しゃぁこ。
 部屋を見回すとあちこちに、薬草や、カエルなどの干涸びた動物の死骸が吊るされてあった。見た事のないような薬草の入った瓶がいくつもぞんざいに置かれており、中央には大きな鉄鍋が据えられ、妖し気な匂いを放つ液体がぐつぐつとその中で煮立たれていた。
 老婆は鉄鍋の前に陣取り、時折鍋の中をゆっくりかき混ぜながら包丁を取り出して、ふぅっと刃に息をあてた。
「よくもまぁ、あそこまで食べ散らかしたものだね」老婆はヒッヒッヒッと肩を震わせて笑った。
 老婆は猫背で頭をすっぽりと頭巾で覆い、黒いショールを羽織っていた。落ち窪んだ目は白い膜に覆われて濁っていたが、その奥には油断なく光る緑色の瞳があった。鋭い眼光が、目の前の小さな女の子を捕えた。
「あの家は、あたしがお前さんたちみたいな子供をおびき寄せるために建てた家なのさ。何年ぶりのご馳走だろうねぇ、今度はあたしがお前たちを喰ってしまうからね。覚悟をおし」
 グレーテルはがくがくと震えて、声も出なかった。
「お前はまだ小さいからもう少し置いておくとして、まずはあの男の子から喰おう。お前はあたしの手伝いをするんだよ」
 老婆は包丁を研ぐ手を休めると、グレーテルに向かってニヤリと笑い、「ついておいで」と言い残して部屋を出た。グレーテルは慌てて起き上がり、老婆の後を追い掛けた。

 ヘンゼルは家の裏手で、鉄格子のついた小さな家畜小屋に閉じ込められていた。自ら暴れたのか痛めつけられたのか、身体のあちこちに紫色の痛々しいあざが見え、ぐったりと檻の中に座り込んでいた。
「兄さん!」グレーテルは思わず叫び、檻の近くに駆け寄った。が、途端に老婆にしたたかに杖で打ち付けられた。
「お前の仕事は、こいつにたんまりと食べさせて子豚のように太らせることだよ」老婆はグレーテルに詰め寄るやいなや、すばやい動作で彼女の上に覆いかぶさった。枯れ枝のような見かけに関わらず、老婆の身体は石臼のように重く、グレーテルの小さな身体をぐいぐいと押しつぶした。
 グレーテルはのしかかる老婆の重みに細かく喘ぎつつ、恐怖におののいた目で老婆をみつめ、小さくうなづいた。

 それから数週間というもの、グレーテルは老婆の言いなりになり、水汲みから煮炊き、薬の調合までこまごまと働かされた。少しでも言う事を聞かないと、鞭のようにうなる杖が飛んできたため、グレーテルは一瞬の油断も出来なかったが、何とかして兄を助けてここを逃げ出したい一心で、彼女は老婆の一挙手一投足を伺い、様子を探っていた。
 グレーテルは老婆の行う薬の調合や、ときおりぶつぶつと呟くまじないの言葉などを見よう見まねでこっそりと覚えた。何かの役に立つかも知れないと思ったのである。老婆は目が不自由らしく、杖を持ち歩き、よたよたと歩いた。足下はおぼつかなかったが、時折とんでもなく機敏な動作をした。そして何かある度に「グレーテル!」と大声で叫び、容赦なく用事を言い付けた。
 老婆はヘンゼルの太り具合を気にしていた。
「指を触って、子豚のように丸まる太っていたら喰べよう」老婆がそう呟いていたのをグレーテルは聞き付け、こっそりと老婆の目を盗んで檻に近付き、ヘンゼルに干涸びた小さな骨を渡した。
「お婆さんが来て、指を出せと言われたらこれを出すのよ。太ったと思われたら食べられてしまうので、気を付けてね」
 ヘンゼルは言い付け通りに、老婆が来る度に、握っていた骨を差し出した。老婆はいつまでたっても太らないヘンゼルに首をかしげながら、家畜小屋を後にした。

 とうとうある日、痺れをきらした老婆がグレーテルに宣言した。
「ええ、もう待ちくたびれた。太っていようがいまいが、今日こそは、あの子を喰っちまおう。グレーテル、裏庭に行ってかまどの火を起こしてきとくれ」
 とうとうこの日が来てしまった。グレーテルはその場で泣き崩れたが、老婆に杖で乱暴に追いやられた。「ぐずぐずするんじゃないよ、さもないとお前も一緒に喰っちまうよ」

 裏庭にあるかまどはパン焼き用のもので、中には四つ割りにされた薪が整然と積まれていた。グレーテルはその前にやってくると、ふとある事を思い付き、そこら中に積まれていたほし草を熊手を使ってギュウギュウとかまどの中に押し込み、その上に菜種油をとくとくと注いだ。そして手に持っていたマッチを一本、そっと自分のポケットに隠した。
 グレーテルがいつまでたっても用事を済ませて帰ってこないので、いらいらした老婆が裏庭に様子を見にやってきた。
「いったい何をしているんだい、火を起こすのにどれくらい時間をかければ気が済むんだ」
 グレーテルはわざと困ったような顔を作り、おどおどとか細い声で言った。
「付け方がよくわからないんです。ほし草を詰めてみたんですけど、うまくいかなくて...」
「ばかだね」老婆は吐き捨てるように言った。「お前は火の付け方も知らないのかい。どれ、マッチを貸しな、これはこうやるんだよ...」


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